安平軍夫日文剪報及初等科課本

文物

這兩份資料為安平文教基金會創會董事長何世忠先生生前珍藏。

    2000年時任安平文教基金會董事長何世忠和董事鄭道聰先生開始做安平耆老口述歷史調查,當時能詳細講述軍夫那段歷史,只有何世忠先生四叔何亦盛,後來基金會將安平耆老訪談集結成書。後來又因省文獻會以台灣軍夫為題做專案研究,安平軍夫墓的歷史受到重視,基金會也開始辦理軍夫祭與座談。

這份日文資料是約2007年由日本玉川大學白柳弘幸教授根據昭和12年(1937)10月1日東京朝日新聞第18490號11版的報紙尋至安平,聽說基金會有在蒐集軍夫資料,特來拜訪,不但分享日文報紙,也將昭和18年(1943)台灣總督府出版的初等科修身,關於台灣軍夫在戰地陣亡的英勇故事教材影印本贈送基金會。

剪報原文:

「夕陽に哀し一條子が父を焼く煙」

親子出征台灣出身軍夫の死

【羅店鎮にて斉藤(一)特派員三十日発】二十九夕秋の日は江南の平原を真紅に染めている。前方巌宅付近の田圃中からゆるやかに上る一条の煙…近付いて見ると悲痛な荼毘の煙であった。数名の兵と共 に煙となって天へ帰ってゆく勇士の遺骸を囲んで今最期の礼を行っているのであった。

記者も思わず脱帽した。火葬に付しているのは軍夫として志願出兵した台 南市安平七六ニ出身の陳養君(49)である。彼は連日弾雨を潜って軍務に服していたが二十九日朝突然公病死した。部隊長は傍らに立つ一青年を指しながら 

この青年は死んだ陳の長男の陳阿雲(20)なんだ、涙一滴落とさず野末に父親を葬るこの健気を見てやってくれ  

ああ子が父を戦場で焼く!部隊長は更に  

だが陳は満足して死んでいった。彼はただ一人息子の阿雲と共に「天皇陛下への御恩報じの出来る時が吾々にも来た」と勇躍志願し妻一人を残して親子揃って 出征したのだが臨終に阿雲を呼び寄せ「病気で死ぬのは申訳ないが父が死んだ後はお前が二人分働いて御国のために尽くしてくれ、一人息子に看とられて逝けば 何も思い残すことはない」と本当に満足そうに死んだと語った。

傍らで阿雲青年は 父は初めて日本帝国の軍務に服し得たことを喜んで居りました。私にしても父親の最後の看護も出来ましたし、それこそ思い残すことはありません。鉄砲こそ持ちませんが父の遺言通り本当にこれから二人分働かねばならないと思います。


譯文: 

夕陽下哀愁的一縷青煙是孩子火化陣亡的父親

父子出征台灣軍夫之死

【羅店鎮齊藤(一)特派員三十日發稿】在二十九日一個晚秋的日子,江南平原被染的緋紅。前方嚴宅附近的田園中裊裊升起一縷青煙…,近前一看,原來是火化哀痛的煙塵。數名士兵圍著遺體正在舉行最後的火化歸天儀式。

記者也下意識的摘下帽子。被火葬者是志願出兵的軍夫,其為台南市安平七六出身的陳養(49歲),陳君連日來在彈雨槍林中執行軍務,二十九日突然因公病逝。部隊長指著旁邊站立的青年說:「他就是死者陳君的長子陳阿雲(20歲),直到父親最後的葬禮也沒掉一滴眼淚,請見證他的精神吧!」

啊!孩子在戰場火化了父親!部隊長又說:「陳君死的很滿足。他與唯一的子嗣阿雲共同在『能報天皇陛下宏恩之時適逢其會』,獨留妻子一人,父子相偕踴躍志願出征。臨終前又喚來阿雲交代『很抱歉,我要因病去世了,我死後你要出兩個人的力氣去工作為國盡忠,有一個兒子在我死前盡孝,也了無遺憾了!』陳君說能這樣死去,他真的很滿足了。」

身旁的青年阿雲說:「父親當初就很高興能到日本帝國軍中服役。而我能夠看顧父親到最後也已了無遺憾了。我雖不能荷槍實彈,但我會依照父親的遺言,出兩份力氣認真工作的。」

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